8月に思うこと

8月が終わった。
 今年も多くのメディアで戦争のこと原爆のことが報じられた。“8月ジャーナリズム”と嫌みを言われたり揶揄されたりすることもあるようだが、私はやはり報じ続けてもらいたい、メディアの責任として報じ続けるべきだと思っている。もちろん、6月23日沖縄慰霊の日や12月8日真珠湾攻撃の日、他にも日本の加害行為についても報道機関にはなんとか伝える努力をしてほしいが。
 それでも、戦争や核の恐ろしさについてしっかり思いを起こす機会が8月にしか無いとすれば、やはり強調しすぎるということはないだろう。特に核爆弾の脅威については、残念ながら日本政府にはその気がないようなので、市民たち自身やジャーナリズムが訴え続けるしかない。これは日本にしかできないことだからだ。今、被爆の実相を伝えることができる方々は年々少なくなり今は本当にわずかになってしまった。そして、あろうことか「はだしのゲン」が平和教育の教材から外されてしまうような中、私たちはかなり意識して一生懸命伝える方法を考えなければならない。私の年代のものは何度も何度も聞かされていることかもしれないが、もしかしたらそれを聞いてくれる子供たちの中には初めて知る人もいるかもしれないからだ。
 はだしのゲンにしても丸木夫妻の原爆の図にしても平和祈念資料館の展示物にしても、それについて伝えようとすれば、語る方も辛く伝えられる方もしんどい。心に多くの負荷がかかることは間違いない。何日も引きずるだろう。しないで済むならしたくない作業だ。しかし、私たちはしんどいことを避けることで実は多くのことの失っているのではないだろうか。繰り返すが、核兵器の恐ろしさは伝えても伝えても伝えすぎるということはない。なぜなら、それが現実のものになったとき、どんなに後悔しても元に戻すことは決してできないからだ。私たちが持っている全ての知識と想像力を働かせ、しっかりと怖がり、何としても回避しなければならない。

 私のルーツである韓国では、8月15日は“光復節”と呼ばれている。もちろん、その意味は日本の植民地から解放されて“光が復活した日”ということだ。子供の頃から、テレビや新聞で終戦(敗戦)のニュースを見ては、一方で親が所属する団体が“光復節”の集会を催し、時に親たちがそこに参加するのを見聞きするという経験をしてきた。普段はそれなりに仲良くやっている日本の社会の中でこの日は全く違う思いが“こっそりと”二つの集団を支配している。そしてそれは日本の植民地支配というコインの表と裏だ。だけど、コインの表と裏は、見る人によって変わるし、そしていともかんたんに入れ替わることを忘れてはいけない。人間どうしで争いが起きるとき、どちらかだけが正義でどちらかだけが悪であるなんてことはあり得ないはずだ。

 今も地球のどこかで起きている紛争・内戦・侵略。常に仮想敵を想定して、陣地取りをすることを最優先にするということからもう卒業はできないものか。そのために人類は進化してきたのではないのか。人間はもっと賢いと信じたいが。
 でも、そんなことをのんきに考えている私も必ず彼らとつながっているし、きっと何かできることがあるはず。毎年8月にはこのようなことを考えるのだが、さて私自身は賢く進化しているのだろうか。

※この記事は、学会、フェミニストカウンセラー協会、フェミニストカウンセリング・アドヴォケイタ―協会が持ち回りで投稿しています。