「能登の豪雨災害に、思うこと」
9月21日、能登半島にまた災害が重なってしまった。今年正月の地震から8ヶ月を過ぎて、一時避難先から仮設住宅に入れた人、それもまだの人たち等、これから復興に向かうはずの中での出来事だったと思う。激変する環境に、当事者や周辺の人々はどうしているだろう。今回の巻頭言には、このこと以外に書こうとしたテーマは消えた。(立憲や自民党の党首選挙のこと、「虎に翼」が終わってしまったこと、等々、浮かんでいたのに)
他のことが浮かばなくなってしまうのは、私自身が東日本大震災の時に体験した困難と無力感と、また、支えられ感や使命感のようなものまでをも、思わず重ねてしまうからだろう。13年過ぎた今でも、災害が起きるとその画面や音声に立ち止まり凝視してしまう。
今更ながら思うことを書いてみる。
当時の自分を振り返ると、苛立っていたし、どこまでやっても不充分感があった。現実の出来事に対してリアリティが薄くて「上の空」な部分もあったかもしれない。津波被害地域に住んでいたので、知人の精神の変調を知ったり、亡くなったことを時間差で知らされたりした。自宅が半壊で帰れず、2度引っ越し自分の身体が痛み、父は施設にいた。行こうとして追突事故を起こした。一方でカウンセリングルームの仲間に支えられてシングルマザーのグループを続け、ホットラインや、FCの勉強。様々な女性たちの声を聴いてきた。
女性たちに課せられる、子どもや「家庭」の維持、重なる心労や我慢…「どこでもそうやってる」「みんな苦労してる」と言われ、ケア役割や家族の絆を守るのは当然とされ、ジェンダー規範ゆえにそれは外から見えない形で強制されて…日常にあった困難や格差が、災害という環境の中で表面化したり限界を越えたりする。その時に繋がり、エンパワメントの支えになりたいと思って動いていた。
自分の弱音に気付いてあげていたか?と、今は思う。
活動を続けている中で、言語化できない弱音の部分が、他者の言葉に共鳴することがあったかもしれない。しかしその自覚も薄かったように思う。自身がトラウマを抱えていると自覚することなしに被害の危機に直面した人の話を聴くことは、被害を受けた人を「助けるべき人」として向こう側に置いてしまう。自分の中でもっと自覚的であればどういう聴き方をしたんだろう、等、振り返っている。
カウンセラーは、常に自分自身の感情に十分気づき、ありのままの自分を理解しようとしている。(=「ジェニュイネス」とロジャーズは表現した。)自分の欲求や感情をしっかり見据えるということを、意識していたつもりだが、しかし。今でさえこのように波立つ感覚があることによって、過去に抱えていたことの大きさを思うことになる。
あの後に、例えばピア・カウンセリングや震災をめぐるCRのようなことができれば良かったのかもしれない。しかし、ルームスタッフもみんな精一杯だった。やれるだけやっていたのだと思う。
災害によって傷つく人がいる。その人を支える人たちも、その周辺の人たちや見聞きしている人たちも、それぞれにしんどさがある。直接的な体験の他にも、噂や情報を通しての恐怖や、もっとひどいことがくるかもしれない不安は特にSNS等で強化されがちだ。封印しているが(意図せず)とても敏感になっていることがある。その世界から離れるに離れられない思いにも、させられる。
誰もがトラウマを負うということへの理解と気付きが大切。当事者の安全の中で回復を促進すると同時に、ケア提供者の間にもコンパッション(思いやり・慈愛)が満ちて燃え尽きが少なくなるように。支えを必要とする側も、支えようとする側も。それがトラウマ・インフォームドケアという考え方だと学んだのは、その後の学習の過程でだった。
自分の立ち位置で、できることをこれからもしていこう。共有できる仲間とつながり続け、自分の心の動きにも手当しながら、と改めて思っている。
※この記事は、学会、フェミニストカウンセラー協会、フェミニストカウンセリング・アドヴォケイタ―協会が持ち回りで投稿しています。