「平和の祭典」オリンピック、そして戦争があった日々
パリオリンピックが終わった。競技以前に、既成概念にとらわれないフランスの演出が話題となり、開催中も何か斬新なオシャレなパフォーマンスが見られたようだ。オリンピックはスポーツの世界最高峰大会と認識している人は多いが、元来、戦争や感染症禍にあった国々にとっての「平和の祭典」として始まり、現在もその意義は変わっていないという。そして、オリンピック期間を中心とした期間は世界の紛争・戦争を休止するという「オリンピック休戦」が国連で採択されている。今年は、長年続く大きな戦争がなお続く中で迎えたオリンピックだったわけだが、戦争が休止された状態はなかった。オリンピックは抑止力にはなかなかなれない。
本日は終戦記念日。1965年生まれの私の小中学生の時代には、夏休みに何日か登校日があり、平和教育として戦争について考える時間がもたれていた。私世代のその親たちは戦争経験者の世代であり、多かれ少なかれ子ども時より戦争中の生活や被害体験について話を聞いて育った人は多いだろう。学校でも、各教師の思いはそれぞれかもしれないが、この国に生きる人たちに受け継ぐ体験を通した気づきや学びを毎年耳にし、目にする機会となっていた。「はだしのゲン」に続き「火垂るの墓」がテレビで放映されるのも、お盆に重なる戦争をふり返る時期の風物詩のようになっていた。
さらに8月6日と8月9日は原爆投下の日である。私の母は長崎で生まれ育ち、その日の出来事を目の当たりにしていた。「家の庭で遊んでいたらB29が低く飛んでいて、ばあちゃんが『はよ、家に入りなさい』といつもの空襲の時と同じように言った直後に、ものすごい音がして大きなキノコ雲を見た」とよく語った。大学院時代の友人は、地元沖縄で戦争体験者の語り合い臨床の活動と研究を一貫して行っている。20年以上になる彼女の記録から、唯一の地上戦の地となった沖縄の人々の想像を絶する体験をわずかでも知ることができる。多くの体験者は長年に亘りその頃のことは話したがらなかったという。根気強い当事者としての関わりに、心開かれ語り合う中で、壮絶な経験がその人の人生に与えたことを本人の手で包み直すことができているように、僭越ながら感じている。戦争を生きた人は、その内容は様々であるが、共通してトラウマを生きてきた人達である。爆心地から距離があったことで、母は偶然重篤な被爆は免れたものの、その時とその後に続いた大きな生活と人生の苦難を生きてきたことが、子ども時より耳にしてきた断片的なエピソードから想像される。数年にわたる戦時下という異常事態の中にあって、原爆投下の瞬間に、親しかった人や町、生活環境の多くを一瞬で失い、小学生の母は焼け野が原と人の死が日常になった中、生活苦を生きた。目に見える外傷がないことで、「まし」な境遇と思われることも多かったことが想像される。母は自身が当日市内にいたことを、父や父の親族をはじめ周囲の人にずっと隠していたことを、私が子育てを始めた頃に知った。「原爆の日は疎開していた」と言っていた。被爆者差別への正当防衛だっただろう。身寄りのない女性の「嫁」という立場の、その複雑で深い戦争によるさらなる傷を感じた。
私がフェミニズムと出会い、河野貴代美氏の講座や語り合いの場で様々な気づきを得ていった人生の第2章における最初の“目からウロコ”は、母娘問題であった。長く抱えていた自分ではどうしようもない強烈な怒りと悲しみは、女性が社会で被る共通難であることに、怒りの許しを得た気がした。気づいたその後も、この複雑で深い関係性の悩みは20年以上続き、気づいてもなかなか自分の人生を取り戻す、とはいかない部分に苦悩してきた。多くの母娘問題経験者が言うように、母自身が高齢となりパワーが変化したこともあり、この数年ほどはようやく母との関係に折り合いがついている。それで、本稿で初めて母にまつわるエピソードや思いを文章にした気がする。とても距離感なく存在した母なので、その体験に共感することには限界があった。相談現場で出会う多くのクライエントには、暴力や搾取の被害を抱えながら生きてきたその人の強さを実感することが日常であり、トラウマ・インフォームドの視点で様々なその人を理解することができるが、母もまぎれもなく複合的なトラウマにより変色した人生を精一杯生きてきた人だと心から思える。“母というものはこうあってほしい”と現実には満たされない面にばかり焦点をあて苦しく思った時期が長かったが、花火の音にいまだ「空襲を思い出す」と顔を曇らせ、周囲の人に気を遣いすぎて人嫌いであり、家族には支配とコントロールが止まない、特に娘の私には不全機能を存分に発揮するという現象は、母自身には気づくことも難しいトラウマの影響のループだと理解できる。
人生にトラウマが与える影響は自他共に見えにくいが、何十回もの終戦記念日を迎えても、その後を生きる女性たちが体験してきた多層の生きづらさは、フェミニズムの視点をもってよく見なければわかることができない。ただ、「性格の悪い人」「迷惑な人」「イヤなことばかり言う・する人」としてとらえるにすぎないだろう。母自身の人生は自分が望むように生きたらいいと、今は心から思う。娘にも同じ思いを抱く。そして私も。まだまだいろんなとらわれや、気づけずにいるトラウマの影響が自分を支配しうることを知っておき、ほんとうに望むことに人生の残りの時間とエネルギーを使っていきたいと思う。次の時代はもう少しは「まし」になるよう、できることをしていこうと思う。
※この記事は、学会、フェミニストカウンセラー協会、フェミニストカウンセリング・アドヴォケイタ―協会が持ち回りで投稿しています。