「命があっても幸せに暮らせないと意味がない」
「亡命のウクラニアン 百年の記憶」というタイトルのNHKローカル番組「かんさい熱視線」を視聴した。番組冒頭に在日ウクライナ人が開いたチャリティイベントが紹介された。そこで「なぜウクライナに降伏するという選択肢はないのか」をテーマに講演した在日ウクライナ人女性が「ウクライナの背景を知ってほしい」と訴えていた。
1991年に悲願の独立を果たしたウクライナ。ここ百年の間に、ロシア革命軍やソビエト連邦から侵略やジェノサイドを受けてきた。ジェノサイドとは1932年〜33年にかけて、スターリンの政策でウクライナの農産物が根こそぎ持っていかれ300〜900万人が餓死させ
られたことを指す。ホロドモール(飢餓殺人)とも呼ばれている。その後も、共産党に抵抗したウクライナ人は次々と秘密警察に虐殺されていった。
これらの記憶はトラウマとして深く刻まれている。こうやって書いている私の胸まで締めつけられる。虐殺とそれへの抵抗、そして抵抗への報復。この痛みは何世代にも語り継がれながら、蓄積されているのだろう。個人の記憶としても、コミュニティの記憶としても。
カウンセリングの現場にはいない私だが、フェミニストカウンセラーのSさんから紹介されて『協働するカウンセリングと心理療法 文化とナラティヴをめぐる臨床実践テキスト』という分厚い本を読み始めている。三分の一までやっときたかというペースなのだが、とても勇気づけられている。私には「そもそも人間の存在って一つのアイデンティティで表されるものなのか」、「複合的に差別されるって差別する側の立ち位置から語っているのではないか」という違和感があり、「複合差別」という表現にもなじめないでいる。しかし、この本は、その違和感は当然なのだと思わせてくれた。「多様性を織り込んだ支援実践」と抽象的にしか表現できてなかった私に、具体的な新しい言葉が降りてきたようにも感じた。
在日ウクライナ人女性の「なぜウクライナに降伏という選択肢はないのか」という問題提起に向き合うことは、私の支援実践にもつながる。支援を求めてきた人の文化に耳を傾け「自分自身の言葉に耳を傾け」(前掲書p.82)ながら、「思いやりと共感を持って共にいる」(同p.72)こと。そして「権力は物というよりも過程である」(同p.21)ことにセンシィティブになり、関係性を育ん
でいく協働的対話を実践したい。
メルマガタイトルの「命があったとしても幸せに暮らせないと意味がない」は、在日ウクライナ人女性が番組の最後で語った言葉だ。戦争でなにもいいことはない。けれども、侵略された側がなぜ降伏しないといけないのだろうか。以前、尊敬する歴史学者から「平等を取るか、自由を取るか、究極の選択を迫られたらどちらを選びますか」と聞かれたことを思い出す。一瞬とまどって自由を選ぶと答えた私。ウクライナだけではない。今、自由を守るために何ができるか? 考えて行動しなければならない。
※この記事は、学会、フェミニストカウンセラー協会、フェミニストカウンセリング・アドヴォケイタ―協会が持ち回りで投稿しています。