それでも続いていく、日々の雑感
新しい年のスタートながら、すっきりしない世の中、すっきりしない日常について、とりあえずそのままに描いてみたい。新年早々のメルマガ巻頭言に、あまりふさわしくない内容かも知れないが、どうぞお許しいただきたい。
世界中がコロナ禍に突入して、もうすぐ丸2年になる。自分ではどうしようもない大きな出来事に巻き込まれた時、時間の感覚が大きくねじれて、何がいつ起きたのかよくわからなくなるような不思議な感じがある。感情が出来事に引っ張られて、その濃さが記憶の順序を歪ませるのだろうか。
学者たちは人類が何度もこうした事態に直面した歴史を知っていて、予測していたという。でも実際に起きるまではわからないことも多く、情報も混乱して、時間が経つにつれて少しずつわかることが増えてきた。私たちは初めて感染症の存在に驚き、最初はずいぶん緊張していた。日常が一変して、すべてがそれ中心に動いて、はじめはずいぶん不自由な思いもあったが、2年も経てばその感覚にも段々慣れてくるのだから、驚いてしまう。
ひとりの人の人生のなかで、この2年間とは一体どのようなものなのか。時間が経つにつれてみえてくるものを、これから私たちは長く受け止めていくことになるのだと考えている。戦争や自然災害などでも同じかも知れないが、その出来事のリアリティは、個々のひとの経験のなかにある。受け止め、どんなに想像力を働かせても、その人の感じたことをそのままに「わかる」難しさを、心していたいと思う。フェミニストカウンセリングは社会学と心理学の狭間にあって、そのふたつを結んだ線上のどこかにいる自分が、時に揺れ動いて、その立ち位置によって見えてくるものが微妙に変わってくる。統計に現れるコロナ禍の女性の困難、DV被害や虐待の急増、若年女性を取り巻く困難、SNS上に溢れるフェミニズムが届かない状況、などなど。気に掛かりながら、目の前のやるべきことに追われ、自分のツールも意識もがなかなかそこに届かず、まだ出会えていない女性たちの困難に思いを馳せながら。でも、いいことにしよう。ここに踏みとどまっていることもまた、大事なことだから。
そんな2年間のウィメンズカウンセリング徳島の歩みを、少しご報告しておきたい。女性たちが安全に語り合える場の「居場所カフェ」を、週に二日開催してもう一年半になる。これは内閣府の民間シェルターの強化支援事業で、DVシェルターを地域で運営してきた「女性と子どもの人権を守るエンゼルランプ」から委託されたものである。予約を受けて有料で面接する、民間カウンセリングルームの敷居の高さについては、これまでも時々考えてきていた。行きたい時にふらりと立ち寄ることができて、面接ほどに差し迫ってはいなくても、ひととつながっていられる、そんな場の必要性を感じてきていた。また、本当に必要な人が無料で受けられるフェミニストカウンセリングも、この事業のなかで専門心理相談として、月に5枠だがようやく実現することができた。
こころのケア講座やジェンダーミニ講座、テーマを決めたCR。時々は、メイクアップ講座や生け花、音楽ライブなどのイベント等も企画しながら、この場所を訪れるひとのつながりが生まれていることを感じている。回復した当事者が支援者になっていく人はレイカウンセラーと呼ばれ、時に専門家以上に支援の力を発揮することが知られている。居場所カフェはシェルターへの支援物資の受け渡し場所にもなっていて、ここからまた女性支援の輪が拡がっていくのだろう。地方の街の一角に、長く続くフェミニストカウンセリングルームがあること。そこで生まれてくるものは、未知数だからこそ面白い。女性たちを支えて、また私たちも支えられて、地域の女性たちとともに過ごしてきたことをご報告したい。
ごく個人的なことだが、昨年11月にパートナーが急病で倒れて、危うく命を落としかねない出来事に遭遇した。その後、何とか回復に向かうなかでこの文章を書いているのだが、コロナ禍の時間感覚の歪みに加えて、さらに個人的な出来事がもたらす、この訳のわからない混乱の感覚を、よく味わって覚えていようと思う。私たちの目の前に現れる女性たちはそんな空気をまとってやって来るのだと、改めて体感したような気がした。
誰にとってもまだまだ落ち着いた日常には程遠く、コロナが終息したとしても、元に戻るとは到底思えないなかで、私たちの暮らしは続いていく。疲れ果ててしまわないよう、自分を褒めながら、休み休みでいい、ゆっくりの歩みでいいのだと言い聞かせる日々である。
※この記事は、学会、フェミニストカウンセラー協会、フェミニストカウンセリング・アドヴォケイタ―協会が持ち回りで投稿しています。