「介護にまつわる話」


 前回の巻頭言に引き続き、介護にまつわる話をさせていただきたい。
 私が介護という状況に引きずりこまれてもう何年になるだろう。その始まりを思い出すことも難しい。
実際、長い間、自分が介護者の役を担わされているという自覚が無かった。始めは銀行の折衝や対応、社会的な手続きを担うことが困難なった父を手助けすることから始まり、混乱を極めていた両親の経済状況を理解し、破綻しないように素人考えをめぐらせ、手続きを取り…。次には、車を手放さざるを得なくなった途端、通院、買い物の付き添いが。そして、何回となくお世話になった救急車と入院とその後の転院、施設入所、退所の段取りと手続き。
 世間は人が高齢になると、理解力、自己決定力、責任能力、経済力も、と全て能力を失うと見なすのか、医療や介護のプロセスに関わる全ての人が、いの一番に説明をし、了承とサインを求める相手は、本人でも配偶者である母でもなく近親者である娘、つまり私。始めは、世の中そういうものかと漫然と世の中のシステムに巻き込まれそうになりつつ、一方では、私は介護の中心にはならない、絶対に引き受けないぞという思いで抵抗していた。しかし、実際には通院に同行すれば、診療室まで車椅子を押し、同席させられ、医者は患者である父でも妻である母でもなく、私に向かって話す。要領を得ない話を聞かされる医者との咬み合わないやりとりに忍耐できない私は、つい口を挟んでしまう。と、帰り道が大事になった。なぜお前が前に出るのかと。長い間、なんで私はそこまで怒られる? 話してくるのは向こうで、こっちだって無理矢理時間作って来てるんだetc。
そして父の没後は母のターン。母の医療や介護にまつわる全ての人々が、”ご本人と話す前に、長女さんにご了解を”と連絡してくる。そして私は繰り返す。私に電話する前に、説明する前に、はじめに本人に説明と同意を取ってください。そうでなければ絶対話は進みませんと。相手は何言ってんの?、そんなことしたことがない、どうしろと、と困惑が手に取るようにわかる。が、とにかくそうしてくれと私は拒否し続ける。そんな状態なのでどこでも言うことを聞かない”問題児”(児?)か認知症扱い。
それにしてもいったいこの人は何にこだわってこんなに闘い続けるのか。最近ようやくしっくりくるようになった。そう、この人は”自分のことは自分が決める”ことを手放したくないんだ(多分!!)。どんな状態になっても、自分のことを人に決められたり、言うとおりにさせられることは絶対に嫌。とくにオレ様の言うことは聞けと言わんばかりの男性の医者は警戒警報が鳴りまくる。だから、了解の順番を間違えなかったり、本人が納得すれば、ことはそのうに動く。しかし世間は高齢者にもその権利があると端から認めず、赤子のように扱うことが親切な介護と決めつけてかかるから要らぬトラブルがおき、その調整役割が同行者の私に降りかかる…。「支援者は当事者の意思を聞く」という最初の一歩を大切にしてくれれば、介護される側は安心して人生が過ごせるのだろう。

※この記事は、学会、フェミニストカウンセラー協会、フェミニストカウンセリング・アドヴォケイタ―協会が持ち回りで投稿しています。