隙だらけなのは当たり前!!

 20歳の頃、夜中の3時頃に道を歩いていて車に連れ込まれそうになったことがある。
当然、私は激しく動揺し、帰宅後に、その時間でも起きている友人に電話をし、話を聞いてもらい少しずつ落ち着いた。そして、その週は、いろいろな人にその話をしたのだが、そのうちの何人かから私を批判(非難)する言葉を受けた。「そんな時間に外を歩いているのが悪い」。でも、そもそも私はその日は外泊予定だったのが、諸般の事情により急に帰宅せざる得なくなったのだ。なので、「そんな時間」になったのは、私に責任はないと思った。「なんで、そんな人通りが少ない道を歩いてたの?」。帰宅することになった時間には終電が出ていたのでタクシーに乗ったのだが、所持金が足りなくて自宅まで着けずに、タクシーを下りたのがその道だったのだ。なので、私が「その道」を選んだわけでなく、タクシー運転手の道の選択と私の所持金の関係で、たまたまその道になったのだから、私が悪いわけじゃないと思った。このように多くの「なぜ?」という批判(非難)には、私なりの理由があり、「私が悪いんじゃない」と思えたが、唯一、「隙があったからだ」という一言には、言い返す言葉が浮かばなかった。
 この時まで、私の中の「隙」という言葉は、時代劇の剣道のシーンの「隙あり!」しかなかった。もちろん、私は武士でもなければ武道全般とは無縁である。まさか、私の人生に「隙」のある/なしが絡んでくるなんて…。でも、ふと立ち止まって考えた…『なぜ、あの人は、現場にいなかったのに、私に隙があったと知っているんだろう?』。たとえ、100歩譲って私に隙があったとしても、現場にいなかった人には、それは知る由もないはず。私に隙があったかどうかを知らないはずの人に「隙があった」と断言されたら、反論できないのは当たり前だと思った。なぜなら、私には「隙が無かった」と説明も証明もできないから。
 今は、その時の体験は、二次被害だったとわかる。でも、それ以来「隙がある」は、私の大嫌いな言葉になった。「隙」が油断している、不用心、ガードが甘いという意味ならば、常に警戒して過ごすより、私は「隙だらけ」で生きていきたいし、そういう社会になって欲しいと思う。世界中の誰もが、隙をみせ、隙だらけであっても、安全を脅かされることがない社会の方が、絶対に生きやすいはずだから。

※この記事は、学会、フェミニストカウンセラー協会、フェミニストカウンセリング・アドヴォケイタ―協会が持ち回りで投稿しています。