「空白」に気づくこと、「空白」を埋めること
「関心はあくまで、自分以外のものに向くべきなのです。今のこのくだらない、問題だらけの、ドブの中のほうがずっとましのように見える社会に確かに存在する、美しく輝く、自分以外のものたちに」
最近読んだ『家(チベ)の歴史を書く』(朴沙羅 筑摩書房)の文庫版あとがきの一文だ。
在日コリアン三世で社会学者の著者による親族へのインタビューと考察で、私が生まれ育ち慣れ親しんだ地域の地名がたくさん出てくる。通常なら整理・加工されるような河内弁と、とっ散らかった語り口そのままのインタビュー記録は、そのリズムや息遣いまで脳内再生されるようで、とても身近に感じた。そして、その地域で暮らしていた頃のことを思い起こした。そこにあった「空白」の存在とともに。
時々とびきりおいしいテールスープをおすそ分けしてくれた近所のおばちゃん、母のパート先や祖母の入院時のヘルパーさん、クラスメイト、学校の先生…小・中学生の頃の私の生活には、在日コリアンがいることが「ふつう」だった。友達と(何かスポーツの国際大会がある時などに)どの国を応援するかで喧嘩したり、先輩やクラスメイトが、普段とは違う名前で読み上げられる卒業証書を受け取ることも「ふつう」なこととして存在していた。そのほかにもたくさんのことがあったが、それらは、特段の疑問や関心を向けることもなく「ふつう」のことでしかなかった。
「いないはずにされている人々は、私たちの隣にいます。私たちは、その人々の歴史を知らないことにすら気づいていません」「マジョリティであるというのは、空白に気がつかないことや、気がつかないことを問題にされないことでもあります」と著者はいう。当時の私の「ふつう」は、空白に気づかないことで成り立っていたのだった。
この本の解説には、「一人ひとりのかけがえのない空白、その人がいる間だけ空白であり、いなくなったら、何の空白だったかも、そこに空白があったのかなかったのかもわからなくなってしまう空白。それを埋める、または指し示す一助としてこの本はある」とある。
当時の私は、空白の存在すら気がつかずにいた。今はそこに空白があったことを忘れずにいたいと思う。今の私の仕事は、その人の、〈言葉にできない〉〈わけが分からない〉〈口では言い表せない〉空白の存在に気づくこと、それを埋めることに立ち会うことでもある。そこで私は、空白を一人で抱えて生きている姿に、そして空白の中に、美しく輝くものがあることをたくさん教えてもらった。
冒頭で引用した文にあるように、「問題だらけの、ドブの中のほうがずっとましのように見える社会」の中で、「確かに存在する、美しく輝く、自分以外のものたちに」関心を持ち続けたいと思う。それは、無力感に打ちのめされそうになる時の解毒剤でもあるし、きっとそこに希望の種があるのだとも思う。
※この記事は、学会、フェミニストカウンセラー協会、フェミニストカウンセリング・アドヴォケイタ―協会が持ち回りで投稿しています。